『マン・オブ・スティール』が面白すぎた。駄文で長文。

久しぶりのブログ更新。

やっぱり、今回も映画の話。ただし、ネタバレが多々アリ。

普段は、「です」「ます」口調でブログを書く私ですが、今回ばかりは、そんな丁寧に書いてられません。なぜなら、『マン・オブ・スティール』を観て、未だ興奮が覚めやらぬからだ。2時間30分という上映時間を感じさせないほど面白かった。

巷で話題の『マン・オブ・スティール』であるが、個人的には、ヒーローモノの中ではかなり面白い方であると思う。下手したら、1番か2番を争う出来だ(1位は、やはり『ダークナイト』になるだろうか)。少し前に、レンタルで『アイアンマン3』を観た。それと比べると雲泥の差。かの名作『アベンジャーズ』と比べても、こちらの方が面白いと断言できる。その理由は、ドラマシーンにあると思うが、それについては、後で書こう。ちなみに、この感想はかなり偏ったものになっている可能性もあるけど、それは致し方ない。だって、超絶面白かったんだもん。

まず、この『マン・オブ・スティール』の面白い点は、2つあるように思われる。「圧倒的なビジュアル」と「濃いドラマ性」の2つだ。

見た目でも分かる「圧倒的なビジュアル」。これは全編を通して観られることで、説明するまでもない。ただ、ゾッド将軍率いるクリプトン星人とのバトルは必見。『ドラゴンボール』の戦闘が好きな人には堪らない作りになっている。瞬間移動しまくり、ビル壊しまくり、殴りまくり、の繰り返しである。ドラゴンボールをこのように実写化していたらと思うと、悔やまれて仕方がない。ザック・スナイダーとクリストファー・ノーランが描く『ドラゴンボール』観てみたいものである

「濃いドラマ性」。これは意外と見えてこないかもしれない。この作品のテーマは「信用」と「家族愛」だと思われる。面白いのが、相当壮大な物語であるのに、テーマはミニマムなところだ。

「信用」。当初、主人公のクラーク・ケントは、ぶっちゃけ家族以外の誰も信用していない。理由は、自分の存在が地球人のそれとは全然違うことにもあるが、ケビン・コスナー演じるジョナサン・ケントが口を酸っぱくして、「その力を使ってはいけない。使ったら世界が大変なことになるし、お前にも危険が及ぶ。世界にも及ぶ」と言い続けたせいもあるだろう。序盤で人を助けて見返りを求めない姿勢も、人を信用していないから起こることかもしれない。この力を使い、人を助けることが義務であると思っている可能性もある。まあ、実際、クラークが「この力を人を助けるために使ってはダメなの?」と語る場面もあるしね。

で、この「信用」を勝ち取るのがヒロインであるロイス・レインであるわけだ。恐らく、クラークに助けられた人々は、どこか彼に感謝はしていたけれども、同時に恐怖を感じていたのかもしれない。青年期の友人達やその家族は、そういう感じで見ていたように見える。しかし、ロイスはそうじゃなかったのだろう。恐怖していたなら、いくら新聞記者とも言えど、あんなにクラークを探しはしない。ロイスはクラークを対等の存在として見ていた。だから、クラークはロイスを信用したのではないか。軍人達なんか、異質な存在として見ていたから論外だけど。

余談だが、この軍人達を信用し、共闘していく過程が『ガメラ2 レギオン襲来』と被ってしまったのは私だけだろうか。ガメラ=クラーク、アメリカ軍=自衛隊と置き換えると、わりかし似ている気がする。まあ、ガメラは怪獣なので信用しているかどうかは分からないのだが。軍人達が信用していく過程は描かれていたし、ガメラもクラークも最初は軍の敵だったし。ああ、あと軍人が意外と強いのも共通点だったり。『マン・オブ・スティール』の軍人さんは、わりかしクリプトン星人と戦えてる。『ガメラ2』でも自衛隊は、わりかし怪獣と戦えてます。ちなみに、『平成ガメラシリーズ』は超名作です。観ていない方は是非。

「家族愛」。どちらかというと、多分こちらがメインテーマ。クラークは産みの親・育ての親、どちらにも愛情を持って育てられていた。特に、育てた父親ジョナサンの愛情は素晴らしい。竜巻に襲われて、クラークが助けに行こうとした時にジェスチャーで「助けなくていい」と言った時には感動した。思わず、涙が出そうになった。あそこで、クラークが自分を助けたら、世間にその力がばれ、息子に危害が及ぶことを察したのだろう。深すぎる愛情である。

クリプトン星人の1人に、母親が襲われた時のクラークの怒り具合も面白い。これは「家族愛」を表してもいるが、クラークの未熟さも表しているからだ。正直、クラークは精神的に未熟なのだろう。物語序盤でも回想でもラストでも、怒りを自分でコントロールするのがギリギリと思われる描写も見られる。ただ、この未熟さがクリプトン星人にないところでもある。劇中でも語られるが、クリプトン星人は産まれながらにして、「役割」が決まっているようである。お前は「兵士」、お前は「医者」とかそんな感じだろう。産まれた時から完成している。対して、クラークは、母親の胎内から産まれたという例外中の例外で、クリプトン星人的には異端になるらしい。役割が与えられていないのだ。そこで、完成された宇宙人と未熟な宇宙人という対立になるわけだ。完成された思考と未熟な思考に置き換えてもいい。結果は、未熟な思考を持つクラークが勝つ。人間らしい方が勝つ。未熟ということは成長という伸びしろもあるわけで、成長を止めた人種は負けるというメタファーだろうか…と深読みしてしまうわけで。

「家族愛」とは若干離れるが、「種族愛」も描かれているのがこの作品の素晴らしいところである。この「種族愛」を極端に表したのが、ゾッド将軍なのだろう。彼は、「種族再建」という役割を持っていたらしい。彼は善悪で言うと、悪ではない。彼には彼なりの正義があった。このあたりが、俗に言うノーラン節なのだろうね。

クラークが物語ラストで、ゾッド将軍を殺した後に、悲しみの雄叫びをあげる。この雄叫びも「種族愛」の1つで、同胞を殺してしまった悲しみからくるものだろう。唯一の種族としての仲間を殺してしまい、1人になってしまった悲しみ。

だが、私はこの雄叫びにもう1つの意味があるように感じた。それは、ジョナサンに言われてきた「不殺」の約束を破ってしまったからではないか。劇中では、「不殺」の話は出てこないが 、ジョナサンは暴力に対しては否定的な面があった。クラークが他の子供に殴られている時でも、反撃しなかったのは彼の教えである「圧倒的な力を使うな」という約束もあるだろうが、「暴力を振るうな」ということも教えていたのだろう。そう考えると、物語序盤で、客に水をかけられた時、反撃しなかったのも納得がいく。未熟的な思考に対して、ジョナサンが教えていった結果かも知れない。これは、人間世界で言う教育や子育てになるのだろう。クリプトン星人の文化にはそれもないので、この辺りの比較も面白い。少し話が逸れてしまった…。で、「不殺」の話に戻る。実は、クラークは劇中で、あれだけクリプトン星人を殴っているが殺してはいないのだ。クリプトン星人の殺す方法は、首の骨を折るか、心臓を貫くか、燃やし尽くすか、恐らくこの辺りにしかない(少なくとも劇中でそうであった。設定上は知りません)。それを踏まえると、クラークはそもそも彼らを殺す気はなかったのだ(殺す気ならゾッド将軍に地球上で、生きる方法を教えなくてよかった。あと、クラークが2人タッグのクリプトン星人に負けそうになるが、これも殺す気が無く、ある意味手加減をしていた可能性もある)。少なくとも、直接的に手をかけたくはなかった。なぜなら、同胞だからだ。しかし、ゾッド将軍が人間達の家族を殺そうとした時、彼はゾッド将軍の首を折る。それは、「種族愛」が「家族愛」に負けた時を表すシーンであると同時に、クラークが「不殺」を守れず、人を殺してしまったことを如実に表すシーンかもしれない。ある意味、クラークは勝って負けたのだ。これは、ノーラン節の真骨頂で、『ダークナイト』でデントが闇に落ちてしまい、ジョーに負けてしまったラストシーンとも被るのである。

ここまでさんざん長く駄文を書いたけども、脚本的に無理があるところもあるんです。観た瞬間に、色々と突っ込みどころはある作品なんですが、そこを指摘するのは野暮というもの。

とりあえず、凄く楽しい作品です! 深く楽しく面白い! 今年一番の映画になるかも。続篇楽しみ!!

少し訂正。ビーム銃で死んでいる奴もいたか。クリンプトン星人の死に至るほどの攻撃って何なんだ…。クリンプトン星人が作った武器は効くとかそんな感じ? とりあえず、殴り合いでは無理そう。あのビームは効きそうだが。まともに、敵に当たった描写あったかなぁ。少しだけ、当たったのは覚えてる。

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